「悔しさと得たもの」

 もっとできた事があるはずだ。

パイロット研究の発表を終えた今、そう思う。

 

こんな事を言ってしまうなんて、時間をつくって発表を見に来てくれた方々には失礼だと、とても申し訳なく、やるせない気持ちになる。

はじめて「研究」というものを経験した。とても楽しかった。膨大なデータを解析すること、研究対象の動画と何時間も向き合うこと、どれもこれも全部「意見に説得力」を持たせるための行為で、時間をかければかけるほど私たちの意見がより強固なものになっていくあの感覚は、何物にも代えがたい。その一方で、多角的な視点を持つことや、一旦立ち止まって分析を振り返ることなどの行為を忘れてしまった様に思う。

発表会で、あるコメンテーターの方がこう教えてくれた。

「メディアというものは、毎日作品を生み出す『その日暮らし』だ。だからこそ、立ち止まって、振り返って研究をしてみると日々のなかで見えてこなかったものが見えてくる」。

映像ジャーナリズムを研究するこのゼミにおいて、とても貴重な視点に思ったと同時に、忘れてはならない「姿勢」のように感じた。

 研究で得た資料や構築されたデータから出来た「意見」。それが構築されて「研究」という作品になり得るのであれば、それを時に振り返って、別の角度でみる姿勢が必要になる。そのコメントを聞いたとき、研究に足りなかったのは「検証する」という姿勢なのではないか、という解が見えたように感じた。

 

 幸いにも、これから数度、このゼミで研究する機会がある。この悔しさを挽回するチャンスはある。

 データの分析の大変さや労力、視点の持ち方や前提知識の不足など、パイロット研究で得られたものも多い。何より、「9期生14人で一つの研究をした」という貴重な思い出ができたことも嬉しい。

 これからは、36人の複数班にわかれて行う共同研究、そして班、ないしは個人で行う卒業研究・卒業制作がある。9期生全員が同一テーマの研究を創り上げることはできないが、それぞれの進捗を発表したり、報告をし合ったりするときに「議論」はできる。班や個人に分かれてしまってはいるが、そこには研究の論を展開するにあたって、9期生全員の何らかの意思が詰まっていますように。

日比第3回